2022年お正月の出来事。
年越しは、
自宅と同じ埼玉県内の夫の実家へ
一泊だけ帰省した我が家です。
欠けたお茶碗が気になる。
義母のお茶碗が
ほんの小っちゃく欠けている。
定点観測していましたが
しばらく使い続けていた気がします。
欠けた食器って
そもそも危ないし、
運気的にも良くなさそうなので、
我が家では速攻処分ですが、
義母のお茶碗には
とても小さい欠けがありました。
義理のお母さんだから、
そのことを言えなかった気の弱い嫁です。
なんだかお茶碗の欠けがどうのこうの書いていていますが…
名誉のために説明すると、
義理の両親は自分たちで建てたマイホームに
猫2匹と
経済的にも精神的にも
自立して暮らしています。
我々夫婦ともつかず離れずの
程よい距離で接してくれ、
なんの押しつけも面倒くささもない
素晴らしい義理の両親です。
70代のふたりは、世代的には
モノをため込みそうなものですが、
モノへの執着は少ないようで、
一軒家で収納場所は多いのに、
いつもすっきり清潔に暮らしている様子。
だからこそ、
義母のお茶碗の小っちゃい欠けが
とっても気になる。
そして、ついでに言うと、
我々夫婦が遊びに行ったときに出される
お箸の塗装がちょっと剥げている。
他がすっきりしているからか、
お茶碗やお箸という
主役級の食器類に
二軍感がにじみ出ていることが
わたしはとーっても気になってしまうのです。
あぁ、なんて嫌な嫁なのでしょう…
日常遣いするものこそ大切に
「本当の意味で人を喜ばせたいのなら
まずは自分を大切に」
一度は聞いたことがある言葉。
自分の心が満ちていないのに
人さまに何かを提供しようとしても、
結局それは「人さま」を使って
自分の足りないものを満たそうとしているだけ。
わたしも「そうだなぁ」と思って
常日頃から「自分で自分を満たそう」とは
思っています。
欠けたお茶碗に思ったことは、
自分の日常的に使っているものに対して
「これくらいでいいや」
「汚れていたっていいや」
「欠けていたっていいや」
という感情があると、
その感情は、
無意識的に
自分自身に対しても
「わたしはこれくらいの人間」
という決して高くはない評価を与えてしまうのかなと。
そして、
その意識が
「人さまにもちょっと汚れていたっていいや」
と出てしまうのかなぁと。
義母が欠けたお茶碗を使っているのも、
お箸の塗装がちょっと剥げているのも、
わたしのコントロール外の問題。
もしかしたら、
本人が気づいていないのかもしれないし、
ものすごく捨てられないほど
お気に入りのものたちなのかもしれません。
だから、
別にいいのです。
でも、
気になっちゃう人は気になっちゃうんだな~と。
結局
夫に欠けたお茶碗のことを話して、
義母の誕生日に
すぐさま新しい夫婦茶碗をプレゼントしました。
夫の家族関係は、
夫に相談するとすぐさま結論が出る。
ひとりでウジウジせずに
すぐに夫に相談すればよかったと学びました。
まとめ
・日常遣いの品こそ自分の気に入るものを。
値段にかかわらず、これがいいというものを。
・自分に対する敬意は、
いずれ人さまに対した時にも現れると思う。
・譲れない理由があっての欠けたお茶碗はオーケー。
でも、人さまからは「?」と疑問を持たれるかも。
★後から読んだ参考図書★
似たような趣旨のお話が書いてありました。
ナディーヌ・ロスチャイルド
『ロスチャイルド家の上流マナーブック』
(★引き出物でいただいたティファニーさんは日常遣い。
ひとりとってもいい気分↓)
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